信じるのは自己責任。怒るなら自分を怒るべき。

2016年公開の映画:「怒り」

久しぶりに見入るように映画を見ました。2年前の2016年に公開された『怒り』です。三つのストーリーから見えてくる形の違う『怒り』が登場人物を苦しめます。人間らしさがすごく現れた映画だったように感じました。ここではネタバレは書きません。ただ、そこから感じた『信じるとは?』っという点で、私理論を展開させてみようと思いました。興味がある方はお付き合いください。あくまで私理論です。ぺこり

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信の意味

『信』という字は過去を辿れば「神様に誓いを立てる」というような意味にまで遡るそうです。それから色々と時代も変わり、今は人と人との約束、絆というような意味になり、この文字を使う言葉は基本ポジティブな意味になります。例えば、信頼、信用、自信など... (参考文献:【信】の意味は?名付けのポイントを徹底解説! | 一期一名(いちごいちな)

 

信じるとは?

この世の中裏切られることが多くあります。職場でも、家でも、人間関係でも、はたまたその辺の他人にも。でも裏切られるってその人を信じてたからですよね。

でもその人を信じてたのって自分の意思だと思うんです。だってその人に「信じて、私を、僕を」なんて毎回毎回言われないですもん、普通に生きてて。その人と仲良くなることで、その人を知っていくことで勝手に自分の意思で自分が信じてるんですよね。

 

だから人に裏切られた時、無性に腹立たしくなる。どこにもぶつけられない怒りがあると思うんです。やるせない、如何しようもない怒りが現れて、モヤモヤしたり物にあたったりするんじゃないかなっと。

 

こんなこというと、そんな理論じゃ、心身持たないよって人いると思います。でも、人間皆いっぱい騙されて生きてて、その騙しから学んで自分の目を、自分の観察眼を養っていくと思います。だから自分の意思で信じていいんですよ。その時の自分が間違ってただけ。次に活かせばいい。

 

イコール騙されてもいいんです。信じて、裏切られてもいいんです。その時は辛いしもういやだ、裏切り者なんてうOこ踏めばいい、鳥にふん落とされればいい、上から雷落ちてきて死ねばいいとか思っちゃうと思います。でもその怒りって一時的なもの。時間がたてば、「あー私あんな人に裏切られたな、こんなことで裏切られたな、じゃあもう次はこうしよう」ってプラスに変えられますもん。(変えるきなかったら意味なしですが...)

 

信じたのは、その時信じたかった自分がいるから、その時の自分の目、観察眼ではその人を信じてたってこと。その後騙されても、自分の成長に繋がるならその「信じる」は自己責任であって当たり前だと思いました。

 

*決して、騙されましょう!何でも間でも信じましょう!っとは言ってないですよ。(ここ重要。)

 

結論

人をむやみやたらと信じるのはよくないです、でも信じていいんです。そこで裏切られても一人になるわけじゃない、ただ次に活かせる学びを得ただけ。それってこれから長く生きていく上ですごく大切な生きる力ですよね。

そして、信じて人に当たるのは本末転倒。だって信じたのは自分の意思。だからそれは自己責任。それで生じた怒りは全部自分で処理しましょ、そしたら一歩先の生き方を手に入れられますよ。仏に近づけますよ。笑

 

(あ、ちなみに信じてた人を裏切る人はそれだけの人なんでそんな人に怒るより自分に怒りをぶつけて前に進んだ方が数倍かっこいいと思いますよ。裏切り者にさく時間が勿体無い。どうでもいい存在にした方が裏切り者にとっては苦痛ですよ。笑)

 

なんかよくわかんない私理論になりましたとさ、ちゃんちゃん。

 

 

 

 

 

 

yoshiko